おせちの由来と歴史
おせちは、奈良時代の朝廷内で、中国から伝わった五節供の行事が
節会(せちえ)として行われ、そこで供される供御を節供(せちく)と呼びました。
節供は高盛りになったご飯などで、今から思うとかなり質素なものだったようです。
五節句の行事が江戸時代に庶民にも広まりましたが、
明治6年太政官布告によって朝廷の行事としては廃止されました。
江戸時代、関西では「蓬莱飾り」、江戸では「食積(くいつみ)」
九州の佐賀・長崎などでは「蓬莱台・手懸け盛り」]と称し、
歳神様に三方などでめでたい食べ物などを床の間に飾り、
年始の挨拶に来られたお客様に振舞ったり、家族で食べたりしました。
天明(1781年)頃までは食べていたようですが、それ以降は飾るだけとなり、
お正月料理は重詰め等へと変化していきました。
のちの「東京風俗志」(明治34年)によると、煮物のお膳料理を「おせち」、
祝い肴を重詰めしたものを「食積」と呼んでいたようですが、
現在は重箱に詰めた正月料理をおせちと呼ぶようになりました。